ミエロのひとりごと

いつかポジティブに…!

意思の奥底

特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
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「青春の一冊」とはなんだろうか。

青春を題にした本のことだろうか。

それとも、青春時代に読んだ本だろうか

青春時代と言えば学生期がそれにあたるんだろうか


それなら、「It (それ)と呼ばれた子」という本が頭に残っている。

虐待を受けた本人が書いた本だったと思う。
幼少期の、母親から受けた事実を鮮明に書いていたと思う。



私はその頃からそういう本に惹かれていた。

思えば、本当に読みたいと思う本はそういうジャンルだったような気がする。

何か後ろめたい気持ちを持ちながら、こっそりと読んでいた記憶がある。

皆を笑わせるためにおちゃらけた態度や冗談を言う私と違う“私”がバレないように読んでいた記憶がある。

異常だと思われたくなかったから。
重たいと思われたくなかったから。
楽しい場を提供して、存在することしか私には耐えられなかったから


そんなことを考えていたと思う。



その本を読みながら、私はそこまでつらい目にあっていないと確認して、“フツウ”を確認していたのだと思う。

私の思いこみであり、家族は“正常”であると認識するための本に利用していた部分も少なからずあると思う。


同じ仕打ちを受けているのを感じて、それが世の中の“フツウ”なのだと思いこんでもいたと思う。


惹かれること自体が“フツウ”ではないのかもしれない。
あの頃は携帯小説だとか、アニメのような文庫本が流行っていた。

そして、あの時代は今のように、虐待死の報道はほとんどと言っていいほどなかった。


虐待なんて、身近ではなく、遠いことの話だと、皆思っていたと思う。


それぞれが問題を持っていても、露見することは少なかった。学校での、度の過ぎた体罰は学年内でもみ消された。教育委員会だって相手にしてくれなかった。
校長先生は私のことを「頭がおかしい」と言った。

そんな場所で、助けを求めることなんてできなかった。
助けを求める資格があるのかさえわからなかった。

思い込みだと言われてしまえば、納得してしまうことは確実だったと言えるだろう。
それほどに、私の“フツウ”は歪んでいて、学校の中も、何もかも歪んでいた。




小説の中の、学校の先生が虐待に気づいたシーンが一番心に残っている気がする。

助けという希望の光が差し込むようなシーンで、
同時に、作り上げた何かが壊れてしまうように感じたシーンだった。


私はほぼ完全に感情移入していた。

そうして希望の光よりも、絶望の方が強かったと思う。バレることで虐待が酷くなることへの不安と、
虐待に耐えていたのは、世の中に、居場所が家族(ここ)しかないからで、それが崩れ去ってしまうことを考えて、恐怖を感じた。

私は耐えられないだろう。そう思った。

ばれることで失うくらいなら、耐えていた方がまだ楽だと、考えたと思う。




力のない、働くこともできない子どもはそんな恐怖を抱くのだと、大学生になった今、最近考える。



子どもは親が唯一無二の存在であると私は考える。

いつかは愛を受けとることができる。今はその時ではないのだ。自分が変われば親も変わってくれる。と考えてしまうのだ。


今となっては、“生きる”ことが重要なのだと考えることができる。


愛は他人から受け取ることもできる。

幼少期に受けた傷はなかなか消えないけれど、愛を受けて、克服することは可能だ。


私はまだその域に達していないけれど、

そうなのだと、同じ経験を持つ人は言っていた。



「It(それ)と呼ばれた子」では、親元から引き離され、大人になったところまでも書かれている。


あの頃の私も、少し前までの私も、親元から引き離されることに不穏な気持ちを抱いていたが、「生きる」ために、のちに「生き延びる」ために、必要になることもあるのだと、まだ難しいではあるけれど、最近では少しずつ思うようになった。


それを考えると、隠れながらでも読んだ「It(それ)と呼ばれた子」は、それらの過程の基であり、私の「青春の一冊」として重要であったと、そう思う。